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映画「何者」感想 ー「何者かにならなくてはならない」という呪いについて考えたー

精一杯背伸びして黒いスーツを着た、たくさんの人たちが同じ目をしている。
同じような綺麗に飾っただけの言葉を口にし、
同じような誇張された武勇伝を慣れた笑顔で話し、
同じような輝かしい未来への希望を熱心に語っているのに、
本当は自信も希望もどこにもないのだと諦めた目。

 

黒いスーツの群衆は
気持ち悪いほど大量生産されていく。
見た目の個性を消されて、
みんな揃って同じ方向へ歩いていく。
黒が正義のこの国は、
真っ黒の闇しかない世界に取り込まれてしまったのではないかと
希望がどこにも見えない。

 

この映画の就活部分の黒い映像の対比として描かれていたのが、
菅田将暉のバンドの部分と佐藤健の演劇の部分。
個性の世界の中にいる彼らは、キラキラと輝いて見える。

そのコントラストがとても美しいと思った。
だからか、
佐藤健が演じる主人公の闇や人間の弱さを描いた部分も悲しいというより、
美しいと思えた。

 

若者たちが「自分の価値」を模索する中、
先に生まれただけの人たちは
若者たちがどうにか絞り出した「自分の価値」に順列をつける。
「学生」以外の何者でもなかった若者たちは
「論理的に話せる」とか「リーダーに向いてる」とか
そんな平凡な言葉でしか表すことができないのに
「何者」かにならなくてはならない。
それが「自分の価値」だから。

 

まだ「何者」にもなれていない私は思う。
どうしたら「何者」かになれたことになるのだろうか。
そもそも「何者」かになる必要はあったのだろうか。

 

私たちは
色々なカテゴリーに属している。
人間であるとか女であるとか母であるとか会社員であるとか。
だけど、「何者」というのは
そんな平凡なありふれた言葉じゃダメだと
どこかからか流れてきた空気がいう。

じゃあ何だったらいいのだろうか。
どこかの企業の社長にでもなれたらいいのだろうか。
いっそのこと総理大臣にでもなれたらいいのだろうか。
その最上級に見えるカテゴリーは
本当に「自分の価値」を表してくれているのだろうか。

 

生まれて、生きていて、そこにいるっていうだけで
もう十分に価値がある
と誰かが優しい笑顔で言っていた。

 

本当にそうなのだろうか?
生まれて来たからには「何か」をしたい。
そう使命感に駆られてしまっている
脳の発達した動物である私たち人間は
多分、今日も「何者」かにならないと、気がすまない。
しょうもない呪いだ。

 

でも「何者」かになれた人はどれだけいるのであろうか。
多分、誰もいないのかもしれない。


平凡こそ幸せだと思う私は
平凡でありふれた言葉で自分を表しながら
毎日それなりに楽しく生きている。
少し諦めた目をしながら。
それでいいのだと思える。

 

大丈夫。
何者かになれなくても、
自分の価値がわからなくても、
自分を受け入れてくれる世界はちゃんとあるし、
その受け入れてくれた世界で
ちゃんと生きていれば、
大丈夫。

 

そう自分に言い聞かせながら、
このまとまりのないブログを就活生のエールにする。

 

何者

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